昭和40年6月6日 朝の御理解
拝むという事、教えを頂くと言う事。そしてそれを日常生活の上に現していくという事、いわゆる行じていくという事。拝むという事。教えを頂くと言う事。しかもその教えを生活の上に現してそれを行い行じていくという事。
そういう事の中から和賀心が生れてくるという事。和賀心と。和らぎ喜ぶ心と。和らぎ喜ぶ心というのは、んー、なんともこの言葉では表現出来ない心だと思うね。まあ、なんとはなしに、どことはなしに、どこからか湧いてくるという、心なんだ。ただ豊かな心といったようなものだけじゃない。和の心といったようなものだけではない。和の上に喜びがついておる心なのだ。ね。これは言葉では説明が出来ない。それが、結局拝む事。教えを頂く事。それを日常生活の上に現していくという事。
行い行じていくという事。ね、そういう事の繰り返しそういう事の中からです、そういう、中からふっと自分の心の中に湧いてくるもの、いうなら与えられる心。その、その、心が有り難いのであり、その和賀心が信心の、信心を分からせてもらおう、頂かせて頂こうとするものにだけ、与えられる心なのである。その心が有り難いのである。
その有り難いというその心に、期せずしておかげがあるとこういうわけなんである。「おかげは和賀心にあり」とおっしゃる。ですからそういういうなら拝むこと、教えを受ける事。それを私共はここに稽古に通うてくるというわけである。
毎日、朝参りを致しておりますから、朝参りをしておるからおかげを頂くのではない。朝参りによって拝む事。朝参りによって教えを受ける事。その教えがです、どこにか血に肉になっていって、日常生活の中にいくらかでも現せれていって、そこからふっと、和賀心が頂けれる。和らぎ喜ぶ心が頂ける。そういう心に、おかげがあると、あるとこう仰るのですから、ここんところが平行していかなければならん。
拝むことと教えを受けるという事と、ね、教えを受けて、そしてそれを行じていくという事と拝むという事がです、車の両輪のように一緒にいかなければならない。
昨日、んー、御祈念の後でした。福岡の渡辺先生がお参りしてあった。大変おかげを受けておられるのですね。その、そしてここでお届けをしておられる内容が、最近いつだったか、月次祭の帰りにたまたま、文男先生の車に便乗させてもろうた。
あちらの弟さんの嘉朗さんと、運転していきながら、横に乗っておる嘉朗さんと話しておられるのを後ろの席で聞いておった。ね。そして、その、嘉朗さんが言うておられる事が、「この頃兄さん、僕は大払いを十巻づつ上げておる」というてその話した。んー、「大払いを上げると言う事は有り難いこっちゃあるもんね。俺達も、二十巻も三十巻も上げたり、またはこうやって、自転車に乗っておっても車に乗っておっても、もういつも、大払いを口づさみながら、おかげを頂いたという時代もあるけれども、このごろではだんだんおかげを頂いてね、一巻なら1巻の大払いをあげさせて頂くということによって、えー、本当に有り難いものを感じるのである。ね、50巻もいわば30巻もいわば、ご神前に座ったら必ず5巻なり6巻なり挙げる。それがだんだん稽古しておるとね、もう一息でね、一息で結局二息であの大払いを挙げてしまうち。あの、(?)というところまで一息。ね。一番最後のところまでを一息。そしてもうただその巻数を余計に挙げるという時代からです、ね、だんだん、少なくなってきてです、1巻を一生懸命でまあ上げる」と。といったようなその大払い問答があっておったわけなのですね。車の中で。それを後ろで渡辺先生聞きながら「あー、成る程、本当に信心を進めていくという事はああ言うようなことの中にもあるのだなという事を、感じさせて頂いて最近大払いを5巻、6巻、または7巻という風に、または日によってはあーその、だんだん1巻づつ大払いをあげさせてもらいよった。そこに、非常に何か有り難いものを、感じております」と。言うようなそのお届けがあっておったのをです。
たまたま久留米からの野口さんが参ってきておって、もう賽銭箱のところから、話を聞いておられた。「本当に、信心は短いのにいー、渡辺先生なんかは本当にえらいなあー、大払いを5巻、6巻というてその、その、ご信心が進まれた度に挙げなさる。いわば、ご神前に座ることが好きになっていきよんなさると。ね、してみると自分達本当に大払い、ご神前に座って1巻挙げたり挙げなかったり、それで、相済まん事だなという風に感じました、今日は渡辺先生のお話を頂きながらおかげを頂きました」というてその、お届けをされるんです。
皆さんどうでしょうか、ご神前に座らせて頂いて大払いがです、5巻そして10巻とずーとこうあげさせてもろうて、とにかくご神前を離れるのが勿体無い。とにかくご神前に座らせて頂いて、いうさっきから、その、和賀心、なんとも言えん神様と私共の間に話し合いを、神様と私共の間に交流が始まる。それが、その交流を断つのがおしい気がする。
繰り返し、繰り返し大払いでも奉上させてもろうて、御神前に額づかせて頂くという事が有り難いのであり、楽しいのであり、そこに、私共の心の中に和らぎ喜ぶ心が頂けれるという体験やらを皆さん、どうですか、野口さんではないですけれども、もう何年参りよるばってん大払いの5巻も10巻も続けたことのなかというような方もです、ありはせんかというようなこともあるのです。
あげんならんというのではない。その事なんかは、私共もやはり家内と100巻あげた時代がございます。もう一日中挙げ尽くめでないとございません。ね、または場合によってはですそれを修行としてさせて頂いたこともあります。また、あー、いわば有り難いからではない、毎日大払い十巻を奏上させて頂きますといったような事をまあ一つ修行のようにさせて頂いた時期もございました。いわゆる拝むと言う事に焦点をおいた事があります。
かといっていうなら野口さんの信心がつまらんかというとそうじゃないのです。来る道々もです有り難うして車の中で声をあげて泣きたいごとある心がこう出来てくるという事を昨日はなしておられます。
ね。拝む事だけではない。お道の信心は。例えば野口さん達なんかの場合はです、ね、非常に反省の強い人。私、自分でいわば欠点を本気で見極めて努力していこうとしていかれる方。
ね、そういうようなことに精進をするということだけでも、神様は喜びを与えて下さるという事がです、車の中で大声を挙げて泣きたいごたる、喜びが湧いておるという事実があるという事なのです。いわゆる教えを行じておられるというタイプ。
拝んで行くと言うタイプ。あるということです。皆さんは果たしてどちらのタイプであるかという事。いや、これはどちらのタイプ、これが両方がです、信心は車の両輪のようにあらなければならないと言う事。
ご神前にぬかずかせてもらう事、拝む事。ね、しかも、しぶしぶとしてその、神様の前に座らせもろうて、立つことが惜しいごたる心の状態そういう時こそ、和賀心なのであるという事。
本気で自分を見極める。本気で改められようと教えの鏡に自分を照らして、本当に相済まん私であるにも関わらず、神様はかくまでのおかげを下さると思うたら、野口さん昨日バスの中で声をあげて泣きたいごたるというて、ここで泣きながらお届けをされてあります。
ね。渡辺先生がです、5巻6巻と7巻と毎日1巻づつ多くして大払いを挙げていくという事の中に、喜びを感じておられると。ね。その両方が信心にはなからなければいけないという事。拝むこと教えを行じる事。ね、いわゆる、み教えを頂くと言う事。そのみ教えを本気で行じさせてもらう。日常生活の上に現していくと、それとこれを拝むという事がです、平行していくような信心。そういう信心から、私はこの和賀心が与えられると思うのです。
その勿論和賀心にはおかげがあると仰る和賀心なのである。和らぎ喜ぶ心と。ただ豊かな心というようなものではないと言う事。ただ円満な心といったようなものではない。それには、どこから湧いてくるか分からんいわば、喜びがとものうた和賀心。信心をさせて頂かなければ頂けれる事ではない、いわば特別の心。
そういう状態の時を私共は救われておるなあ、信心を頂いておるということがです、有り難いことだなあという信心の妙峡に浸らせて頂く時であると思うのです。自分の信心にはやはりいろんなタイプがあります。今の例えば、野口さんと渡辺先生の二人のタイプを話しましたけれども、それ以外にもあると思いますけれどもです、ね、とにかく内容が拝む事に強い人、教えを行じる事に強い人。もう拝む事も大して楽しみがない、教えを行じるということにも、大したその、行じ方をしていない。ただ、参っておるとは参っておるとばってんというだったらです、何十年断っても本当の信心の成長はみられないと思うですね。
おかげを頂かねばなりません。